花都区の工場視察を終えたあと、今度は深センの工場の視察に入りました。
実は今回のメインイベントはこの深センにある、日系企業の運動会に参加することだったのです。
この運動会は大変有名なもので、そもそも石井さん(60歳強)という深センにおける日本企業の駆け込み寺を作り上げた方が始めたものです。
石井さんの作り上げた支援センターは、中国に進出した企業の、貿易業務、政府との交渉、人材の確保、労務関係の調整(これが本当に大変らしい)、客先の紹介、設備の斡旋などをボランティア精神で15年も行い今日に至ります。
今では日本の企業や大学からインターンも受け入れていて、現場を実際に体現させることも行っています。
大学生などは相当なカルチャーショックを受け、何人もの学生が休学してまでこの支援センターで働いているようです。それはそうです、深センの工場を今の日本の学生やエリートと呼ばれる若い社会人が体験したとしたら、相当なショックでしょう。
なぜなのか?ここでちょっと深センの経済事情をお話しましょう。
中国では長い間国営企業中心の社会主義政策を取っていましたが、トウ小平がおこなった改革開放政策により、経済は社会主義自由経済に変更されました。
しかし中国には伝統的な戸籍制度があり、これは変わっていませんでした。この戸籍制度とは生まれた場所の戸籍は基本的に変更できない。そしてそこにすまなければならないというもので、かってに住所変更ができない制度なのです。(現在も続いています)
そんな中、経済開放政策によって「特区」というものが生まれました。よく言う経済特区と呼ばれるものが全国で数十あり、そこでは従来からある戸籍制度の柔軟な運用が行われました。
深セン経済特区では、経済特区の企業に勤める者は3年間居住を認めるというものです。
現在の深センの平均賃金は月1万5000円程度ですが、それでも内地の農村地帯の10倍にもなります。さらに言えば内地にはまともな仕事もない。
そこで女性を中心にした出稼ぎ労働者が殺到します。おりしも韓国や台湾とのコスト競争の敗れかけていた日本の労働集約型企業は(人手をかけて生産をするタイプの製品を作っている会社や、ラインにたくさん人がついている会社)この施策に飛びつきます。
日本の20分の1のコストで、若くて目のいい女性がうじゃうじゃ採用できる。その上3年たてば田舎に帰らなければならないので、自動的に新人と入れ替わる。つまりコストが上がらない。
そして働く従業員たちは大喜びで働いてくれる。
こんな良い話はありません。
実際3000名ほど女性を中心に雇っている工場の責任者に話を聞くと、「11年間やってはいるが、毎月100名ほどの社員がやめ、100名ほどの社員が入ってくる。のべ何万人もやめたとは思うが、たった一人たりとも仕事がつらいといってやめたものはいない。田舎に帰ったり、病気になったりする以外でやめるものは、すべてもっと給料のいい会社が見つかった場合だ」
ただしその生活環境はとても良いとはいえません。まったく持って映画「ああ野麦峠」のようです。
ほとんどの工場が出稼ぎ労働者のための寮を持ってはいますが、一部屋に2段ベッドが4つで8人か6つで12人。自分のプライベートな空間はベッドの上だけだそうです。
そこで必死に貧乏から抜け出そうと働いているのです。
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Posted by 金丸 : Comment(0) | 2006.11.26.